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「また来るね」のない出発 〜遠い5分間の家路〜

neru

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2026.04.29

4月の第2週、春の柔らかな光が差し込む眼科の外来に、私は母と並んで座っていました。
前日に済ませたもう片方の白内障手術の結果は極めて良好。
主治医から「これでバッチリですね」と笑顔で送り出された時、私の心は安堵と、これから始まる新しい生活への期待で満たされていました。

病院から駅へ向かう道すがら、母の足取りは驚くほど軽やかでした。
視界がクリアになったことで世界が広がったのか、道端の景色を楽しみながら歩く母の横顔は、とても嬉しそうに見えました。

そんな喜びとは裏腹に、 私の時計の針が刻むのは、残酷なほどに正確な「入居」へのカウントダウンです。
昼食後、母をグループホームへ連れて行く――。
その約束の時間が近づくにつれ、私の胸は締めつけられるような痛みに苦しくなっていきました。

「今日から、ここでお世話になるんだよ」
そう正面から向き合って伝える勇気が、その時の私にはありませんでした。

せめて最後は二人で、と思い選んだ昼食は、おむすび屋さんのカウンター席。
横並びの椅子に座り、母と視線を合わせないようにしながら、私は必死におむすびを口に運びました。
母に気づかれないよう、溢れそうになる涙を指先で拭うのが精一杯。お米の味も、具の味も、ほとんど覚えていません。

自宅近くのバス停で降り、歩いてすぐの場所に新設されたグループホーム。
開所から2週間が経ち、建物の中は新しい生活の活気に満ち溢れていました。
笑顔で迎えてくれるホーム長さんと職員の皆さん。
母は、自宅から運び込んで整えておいたお気に入りの家具に囲まれた自分の部屋をすぐに気に入り、自然とそこにいる方々たちの輪に溶け込んでいきました。

ある程度時間が過ぎた頃、ホーム長さんにそっとリビングの外へ呼び出されました。
「あとは私たちが。お母様にはご挨拶をせず、このままお帰りいただけますか。」

それが介護現場のセオリーであり、母にとっても、施設にとっても、そして私にとっても「正しい選択」なのだと分かってはいたはずですが、母に背を向けて施設を後にした瞬間、後ろ髪を引かれる思いで視界が歪みました。

自宅までの距離は、徒歩でたったの5分。
なのに、あの日歩いたその道は、 果てしなく遠く、とてつもなく孤独なものに感じられました。
母がいない自宅で、私はただ、止まらない涙を流し続けていました。